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The Utopia of Rules, インボイス制度、そしてLawful Evilについて

16:00, October 1 2023

TL;DR

David Graeber “The Utopia of Rules” (2016)

本書はbureaucracy1に対する批判のエッセイである。これまで、右からのbureaucracyへの批判というものは主に規制緩和の推進という方向で存在したが、左からのbureaucracyへの批判は存在しなかった、あるいは右からの批判に劣後するものでしかなかった。本書は左からのbureaucracyへの批判の材料を提供することを試みている。

アメリカはイギリスから第二次世界大戦以後の覇権を引き継いだのち、IMF, 世界銀行, GATT(WTO)などに代表されるような、bureaucracyに基づく国際秩序を敷いた。このような体制はそれ以前のイギリスの覇権下ではあまり見られなかった。bureaucracyに基づく管理体制は一見アメリカの理想とする自由主義に反するように見えるが、free-market capitalismは直感に反してその形を維持するためには(軍や警察などの暴力の裏付けのある)規制や法の執行が必要であり、bureaucracyと相性がよく、free-market capitalismとbureaucracyは手を取って世間に浸透していくこととなった。

本書のbureaucracy批判の主な主張として、著者は、bureaucracyは表面上は善意や市民の声の反映を装っているが、その実態はsystemicな暴力の独占を背景に特定のアクターに自由や富を集中する仕組みに他ならない、と指摘している。

また、本書では、bureaucracyの増大は我々を不幸せにしているにも関わらず、我々がこれに惹かれてしまう理由の考察が行われている。bureaucracyは現実に規則を導入することにより、言うならば現実をゲーミフィケーションしている。我々はgameやplay2に喜びを覚えるが、(神のような)上位存在のplayが存在する世界は不確定要素が大きく、上位存在のplayを人類が恐れてきたことは神話に多く残されている。しかし現実を単純化したルールに基づく動作をするgameならば予測が可能であり、ルールに従って行動している限りは勝つことができるかもしれない、という希望もある。こうして人類はある程度のfreedom = play3を犠牲に、予測可能な形に現実を統御するためにrule = bureaucracyを導入したがってしまう。しかし現実にはルールの適用度が力の有無によって左右されている現実があるのだから、ルールを決める側にこの感情を悪用されてしまっているのではないだろうか?

rationalityの信奉、論証万能主義、2ちゃんねる的な言論

(ここからは読んだ上でのsylph01の感想を含む)

本書ではbureaucracyを支持する基盤としてrationality(合理性・合理主義)の追求、efficiency(効率)の追求があるとしているが、同時にrationalityやefficiencyそれ自身はvalue system(価値の体系)ではなく、合理的である・効率的であるというのは何らの道徳的立場を表明するものではないはずである、と指摘している。とはいえ現実には合理的であることや効率的であることは「何に対して効率的であるか」を置いておいてもそれ自身が善であるとされる傾向がある。rationalityに異論を唱えることはirrationalである、と言われるが、このirrationalという言葉には「頭がおかしい」「異常者である」というニュアンスが付与されてしまっている。

価値体系のない合理主義は社会変革のために資本主義システムを拡大すべきという加速主義の立場と相性がよく、合理主義の際限ない適用は論敵を論破することを至上とする2ちゃんねる的な論証万能主義的言論と相性がいい。どちらも道徳的・倫理的な価値の体系を(半ば意図的に)持たず形式の完全性のみを以て通用するものであり、これはまさにbureaucracyの求めている性質ではないか?価値体系を欠いた合理主義の際限ない適用はイーロン・マスクらに代表されるテック長者のイデオロギーを指す語であるTESCREAL4の一部をなしているが、Twitterがイーロンに買収された際に左翼メディアのパージを喝采したのはまさに2ちゃんねる住民とその延長の層であり、価値体系を欠いた合理主義を通して結びついた加速主義的イデオロギーと2ちゃんねる的言論の相性の良さを示しているように思う。

論証万能主義とハンロンの剃刀

ネットの喧嘩などで見られる「論証」の形式として、ある主張への批判として文字通りに書かれている以上のことを主張することは「ハンロンの剃刀」で問題のある論証であるとされている「悪意を見出す行為」にほかならず問題のあるロジックである(ひいてはその批判を行う人間はirrationalで異常者であり陰謀の存在を主張する陰謀論者で異常者である)、というものが見られる。

一方でロビイングという行為はまさに文書に残る法律や制度の外側での利益誘導を実現する行為である。文書に残る形で直接的に利益誘導をしたと書かれてしまってはletter of the law上もspirit of the lawとしても抵触してしまうからである。そしてこのような利益誘導行為はまさに政治の本質であると見なされている。本書の中でも、deregulationはいいことであるように言われているが、regulationの対象である銀行などは本質的にderegulateすることは不可能で、結果としてderegulationとは「都合のいいようにregulationを引き直すことである」と指摘されている。政治は本質的に利益分配ひいては利益誘導の営みであるとして利益誘導行為を支持する人が、同時に書かれたもの以上への批判、つまりregulationを引き直す都合の部分への批判を陰謀論として封殺することは無敵論法ではないのか?

rationalityの道徳への同一視とハンロンの剃刀が合体すると「本音と建前」における建前の部分についてしか言及することは許されなくなる。本音は論証することができず、悪意は論証することができない、論証できないものに言及するものは異常者だからだ。また、この論法を用いる限り図星であること=都合の悪い解釈を陰謀論として握りつぶすことも可能である。本音は論証できないので、本音が図星であったとしても陰謀論であると指弾することはカウンターされ得ない。

「棒」としてのbureaucracy

価値体系のない合理主義は容易に他人を殴るための棒と化すことがわかったように、spirit of the lawを欠いたbureaucracyも容易に他人を殴るための棒と化す。ルールをとにかく増やし、どれかのルールに少しでも触れたら殴ればよいからだ。「生きているだけでうっすらと違法です」「その処罰を実行するかどうかは法執行機関の恣意に委ねられています」という状況は法を執行する側とそれを使って管理したい側にとってみれば非常に都合がよい。個々のルールは善意に基づいて導入されていたとしても、その総体が善意に基づいて運用されているかどうかはまた別の話である。そして悪意は論証できないので批判は許されない。

インボイス制度

“The Utopia of Rules”というタイトルは、増大するルールの体系に全員がついて来れる、という仮定自体がutopic、ありえない仮定である、という主張からつけられている。ルールが増えるごとについていくためのコストも増えるが、それは往々にして無視される。また、ルールの追加によってbureaucracyの求める基準についていけない市民は不利益を押し付けられる。このような指摘は、まさにインボイス制度5の性質について指摘しているように見える。

インターネットにおいてインボイス制度に関する立場を表明することは非常な困難な問題となっている。インボイス制度は税収に対するrationalityを実現するための仕組みなのだから、rationalityと道徳を同一視する見方のもとでは、反対する人間はirrationalで異常者、あるいは(インボイス制度の善意の部分を否定しているので)脱税を行いたい犯罪者予備軍であると指弾することができる。また、bureaucracyは「現実」なので、このコストが高いという主張をすることは、fantasyを追い求める空想主義者であり「大人」として不適格、社会を担うコストを負担することを拒否しているので「大人」として不適格、と指弾することができる。また、インボイス制度に反対する署名の政府への提出が請願法に基づいた請願の形式を満たしていないものであったため受理が拒否されたことや「データのUSBメモリを渡した」ということについて、政治手続きをわかっていない「大人」の非存在を指摘し、インボイス制度に反対することは「大人」でない、とする向きもある。

結局インボイス制度の批判には「特定の業種が死ぬ」ということよりも「徴税効果に対してコストが異常にかかることが知られているけどそのへんちゃんと試算したの?こんなザルな制度許されるの?rationalityの追求してるんでしょ?」という向きで攻めるのが最も順当であると思っている。善意で導入された法律なんだから、「特定の業種が死ぬ」と言われても「死ぬほうが悪い」って言われるだけである6

side note: 私の立場?そりゃ事務手続き増えたら困るんで反対ですよ

責任ある大人なのでやれと言われたら渋々やりますけど、誰が好き好んで事務手続き増やしたいと思うんですか?空気抵抗や摩擦は存在しないものとする、っていうのが許されるのは大学入試の物理までですよ、現実には空気抵抗や摩擦は存在するし、事務手続きには無視できない程度のコストが存在します。そして試算の結果コストがベネフィットを上回るとされている。

ITフリーランスっていう業種自体が課税事業者か免税事業者かどっち取るか微妙な線の売上になりがち、というのもある。昨年は免税事業者になる範囲に稼働量をわざと調整した7。これを年の初めに前もって決めろ、と言われても困る人多いのでは?免税事業者の範囲に収まるつもりだったけど儲かってしまった、みたいなケースで遡って番号適用できないでしょ?このへんまで含めて考慮が甘い気がしている。もっとも消費税が導入されたときと同様に3000万まで免税だったら多分99.5%のITフリーランスは免税事業者になると思うのでこれだったら締め付けたくなるのもわかるけど…。まあ本音は全員番号取って納税事業者になれなんだろうけど、本音は論証できないので…。

Lawful Evilについて

Dungeons & DragonsにはAlignment Chartという概念があり、規範の遵守性を示すlaw-chaosの軸と倫理善・倫理悪の軸であるgood-evilの軸とそれぞれのneutralで作られる3x3の9象限のチャートを用いてキャラクターの性質が表現される。

先日のアーケードゲームの解析に関するエントリ(※日本語版はわざと用意していないことに注意)でも触れたのだが、日本をはじめとする東洋は名誉と恥を道徳の原理とする”honor-shame society“であり、その性質上、「善くあること」とは社会規範に従うことであり、moral goodnessとlawfulnessが同一視される傾向にある。件のエントリにおいてはこれが海賊版(や任意の違法行為の公言)に対して集団で炎上させる行動につながっていると指摘しているが、moral goodnessとlawfulnessが同一視される環境においてはlawful goodとlawful evilの区別が行われない。「法を犯した犯罪者だから(自分が法に触れない限りは)どんなに恥をかかせてもいい」という主張は善であるとは言い難いが、少なくとも法律に従っているし、法律に従っているかどうかという軸で善悪を判断しているのでlawfulではある。

Lawful Evilはbureaucracyによる悪意のもっともらしい否認(plausible deniability)と相性がよく、ひいては論証万能主義と相性がよい。法律の意図は記述されていない限り論証できないので、制度的差別(systemic discrimination)によって利する側は、制度設計の差別的意図が論証できないので陰謀論であるとして指弾することができてしまう。

本書中ではファンタジーにおける悪役はbureaucraticなevilとして描かれがちであり、ヒーローはanti-bureaucraticな存在、いうなれば”chaotic” goodとして描かれている8。しかしファンタジーにおけるヒーローは、魔王なくして勇者が存在しないように、意思を持って悪意を行う悪役に対して受動的(reactionary)でしかありえない。そしてそのような物語を消費することにより、anti-bureaucracyとは現実から離脱した子供じみた幻想である、という価値観が植え付けられる、と主張している。

一方で、ファンタジーにおける悪役のLawful Evilとは、Lawful Evilにカテゴライズされがちなダースベイダーから見てわかるように、極めて意図を持ったlawful “intentional” evilであるのに対して、現実に存在する厄介なlawful evilは意図や価値体系を欠いた、極めて凡庸な悪、lawful “banal” evil9である。

Anti-bureaucratic heroも空想のものでしかないように、現実には壮大な陰謀を働く悪意のアクターは存在せず(存在を主張しますか?あなたは陰謀論者で異常者です!)、規範に従ってる限りは善である価値観の下では特にlawful evilというカテゴリ自体が空想のものとして見なされがちであるが、本当に立ち向かわなくてはならないのは、我々の中に潜む凡庸な、しかし法の下でも論理の下でも指弾することのできない形の悪なのではないだろうか?そして、bureaucracyやrationalityは価値中立ではない以上、その際限ない拡大は悪意の行動を働く人間を利する可能性もあり(そしてその可能性は高い)、そのため注視される必要があるだろう。


本書に対して想定される批判として、「bibliographyとappendixとglossaryを備えた学術書ではない」、つまり実証的な学問の成果ではなくただのお気持ち表明に他ならない、というものが考えられるが、結局そのような批判もrationalityの基準に乗っからないものはirrationalな異常者の発言である、として切り捨てるための方便である、と言うこともできるだろう。

あと個人的な本書に対する批判としては、Appendixの、”The Dark Knight Rises”がつまらん映画だった、という件についてはよくわからなかった(※該当の映画について私は見ておらず知らない)。Occupy Wall Streetに対してのカウンターであることがうまく行ってないっていう主張らしいんだけど、本文との関連が全くわからない。


  1. 一般に「官僚制度」と訳されることが多いが、本書においては批判の対象となっているのは官僚制度ではなく、どちらかというとそれに伴う「事務手続き」の総体、事務手続きによる管理、というニュアンスで用いられており、「事務主義」と訳すのがよさそうであるが、本文中では英語の表記をそのまま利用することにする。 

  2. 英語はgame(体系だった遊戯)とplay(遊戯の行為そのもの)を区別する語が存在する。ドイツ語ではどちらもspiel 

  3. 日本語でも空間的余裕とか変更の余地のある部分について「あそび」というのはニュアンスが似ていると思う 

  4. 個人的にはこれはかなり雑なカテゴライズだと思っている。右派加速主義で実際のところだいたいが説明できると思っていて、singularitanianismやlongtermismも加速主義に内包されているものだし、未来志向の現れとして宇宙を目指すことに対してロシア発祥のイデオロギーを持ち出さなくてもよかったのでは?と思うところがある。rationalismを単純に悪のキーワードとして提示しているのも無理があるのではと思っていて、rationalismの無制限な適用のほうを問題とするべきなのでは、と思う 

  5. 不利益の可能性を盾にbureaucracyのコストを末端の市民に押し付けるという意味ではインボイス制度もヤバいのだけど電子帳簿保存法も大概ヤバいと思う。ここではインボイス制度についてのみ言及するが、文章の意味上は電子帳簿保存法もセットでも通用する 

  6. 事実として「インボイスで死ぬような業種だったらちゃんと税務署にインボイスを通して実態把握してもらって手入れしてもらったほうがいいのでは?」と主張している人もいた。実際のところは徴税だけするのだろうし、法律上の必要性もインセンティブもないのだから仮にこれを通して得られるデータがあったとしても何か業界の改善のために動くようなことがあるとは考えにくいが…。 

  7. 参考までに、所得税・住民税だけを見れば手取り額は課税所得に対して単調増加になるようにできているので「税率のボーダーラインでの調整」はそこまで意味がないと思っているが、課税事業者か免税事業者かの壁を超えると売上に対して手取り額は単調増加ではなく不連続になる点が存在するのでここでは調整するインセンティブが存在する。103万/130万の壁や各種所得制限もこういう「低いほうに出力調整するインセンティブ」を生んでしまうのでこういうところを可能な限りなめらかにしていくのが重要なのだと思うのだが… 

  8. スーパーマンはLawful Goodとしてカテゴライズされがちだが、bureaucraticな悪役に対するカウンターという観点ではchaotic goodになる。まあsocial orderの守護者という意味ではlawful goodだと思うのだが… 

  9. ハンナ・アーレントの言う「悪の凡庸さ」は英語では”banality of evil”という。mediocreという語が使われることもある。