18:00, January 30 2026
Do I?に続く、AIについてのめんどくさい話、第二部です。日本語のタイトルは「無名の質、花、そして語り得ぬもの1」で、第一部の最後に書いた、人間のプログラマがなすことができAIが積極的にはなすことがない「善」について、より掘り下げていく内容になります。なおプログラマというスコープに限った話ではなく、人文の世界の話が主です2。
私は今の形のAIを指して単にAIと呼ぶことはあまりせず、LLM(Large Language Models)という語を選んで使う。基本的に現在のAIと呼ばれるものは雑にいうとものごとに対してどのくらいの確率で出現しうるかという情報をかき集めて「学習」しそれをモデルの形で圧縮したものであるという理解をしている。LLMの成功によって今までの方式では得られなかった「人間らしい」言語や画像の生成ができるようになったことで人類の知性が解明されたかのように言われているが、私があえて今のAIをLLMという限定した呼び方で呼ぶのは、LLMは人工「知能」のうちの極めて限られた領域の表現でしかない、という理解をしているからである。
LLMが言語の世界で動作するものであるとき、言語の世界の外にあるものはLLMには奪われることはないのでは、と考えられる。典型的には、第一部で書いたような経済的な理由がなくとも、身体的な機能は言語の世界の外にあるものとされるので肉体労働はLLMに奪われることはないと言われる。一方でLLMが駆逐するだろうと言われているソフトウェアの世界などの言語が支配する世界にも言語化されない品質特性があることは第一部の最後に「善性」が「無名の質」であるということで触れた。
クリストファー・アレクサンダーは『時を超えた建設の道』の中で住民側が感じる街の価値を表す表現として「無名の質」という概念を提示した。品質特性そのものの内包的定義を与える代わりに、その品質特性は生き生きとした(alive)、全一的(whole)、居心地のよい(comfortable)、捕われのない(free)、正確な(exact)、無我の(egoless)、永遠の(eternal)の共通部分にあるものとして説明を行った。
ソフトウェアの「手触りのよさ」というものは「無名の質」の一つであろう。そこに存在することは確かだが、その品質特性を直接に言及することはできない。「バグがなく動作している」などの機能要件、「性能がいい」などの測定可能な非機能要件の外に存在しているものである。ソフトウェアやサービスに感じる「善性」もただ「悪をなしていない」ということで説明できるものではないが確かに存在している。
オタク構文の「ありえん良さみ」とはもしかしたら「無名の質」のことだったかもしれない。
LLMに奪われることがないものとして挙げられるものとしては芸術の世界がある。生成AIによって画像や音楽が生成できるようになってなお、芸術としての美術や音楽は侵されることのない領域として理解されている。
能の秘伝を解く世阿弥の『風姿花伝』3の最奥の秘伝である別紙口伝の最も有名な一節として「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。」というものがある。秘密であるからこそ花であり、秘密でないものは花たり得ない、と説明される。芸事の「花」はその性質上秘しているものであり、秘している以上LLMに解されることはないのでは、ということが、真の芸術がAIに侵されることがない、という考えの背景にあるのではないか?
第七 別紙口伝の中では、花について、「そもそも、花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得てめづらしきゆゑに、もてあそぶなり。」「花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。」と説明しており、新規性・新奇性を以て能の花である、としている(と私は理解した)。また、その花の種として、あらゆる演目をこなし、その上でしか花は咲かない、としている。秘すれば花、秘せずは花なるべからず、についても、秘伝の本質とは「何が秘密であるか」すら秘密であることにあり、珍しさが花であると観客が知っていてはそのために作られた珍しさは観客にとって何も珍しくない、ということから、新規性で説明ができる。
新規性こそが花であり、そのために徹底的な学習を行い、その中から新規性を発見することが重要である、というのは芸事の世界のみならず学術の世界でも言われる。「研究をしなさい、勉強は簡単(研勉簡)」4という表現はまさに学問の世界において「秘せず」の既存の知識の吸収は「花」ではなく知識の創出こそが「花」である、ということを言っているのではないか?その観点から言えば、技術書に書かれている程度の技術は最新技術ではない、とか、LLMができる程度のことは仕事ではない、ということも言える。
この別紙口伝はもともとは「たとひ一子たりといふとも、無器量の者には伝ふべからず。」と言われる秘伝中の秘伝であったが、現代においてはそのへんの本屋で手に入れることができる情報になってしまった。現代において最奥の秘伝すら明らかになっているのならば何が秘伝で何が花であるのか?
『風姿花伝』では他にも「能を尽くし、工夫を極めて後、この花の失せぬところをば知るべし。この物数を極むる心、すなはち花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、まづ種を知るべし。」(第三 問答条々)と説いている。作品数を演じ、それに工夫を行い尽くすことが「花」を生む種である、としている。LLMはこの「物数」を消尽する能力に関して人間を遥かに上回っている。しかし「物数」を消尽して完コピすることに「めづらしき」はなく、「物数」の稽古の上で工夫を極める部分はまだ人間に残された領域であると考えられる。また、時には審美眼の優れていない客に合わせて演じることについても説いており、これも工夫を極める部分同様LLM単体でできることではない。LLMは圧倒的な「物数」の消尽ができて圧倒的な試行回数をこなすことができるといえど、その出力の抽出は現在人類が行っている以上、稽古と工夫の末に得られる審美眼は人類に残された砦である可能性が高い。
現在のLLMは作曲もこなし楽譜を出力するようになったため、「楽譜通りの演奏」が何であるかについて理解をしている可能性は高いと思われる。数多くの文献から、テンポの変化を伴う標語としてのaccelerando、stringendo、stretto(それぞれテンポが上がるもの)だったりritardando、allargando、morendo(対してテンポが落ちるもの)などは理解しているだろう。一方でそれらを音として出力したときにそれらを作曲者が書き分けているニュアンスを理解して出力できたり、演奏を聞いてそれがそのニュアンスを再現できているか理解できるだろうか?もっと言えば、トッププロと素人の演奏は楽譜通りであるか見分けられたとして、トッププロと(少なくとも楽譜通りに演奏はできる)音大生やプロの卵の演奏を、サンプルとして学習しているかどうかではない方法で区別できるだろうか?楽譜から想定される究極の「良い演奏」を出力できるだろうか?おそらく不可能であると考える。これは単に言語化がされていないだけでなく、「無名の質」と同様、単に「ミスをしていない」では説明できない性質に依存しているからである。
一方で私はスポーツに対してクラシック音楽をはじめとする芸術の「科学化」が遅れているとも思っている。身体知は言語化できないのでLLMに対する人類の聖域である、と言われがちであるが、スポーツはパフォーマンスにおける身体知の言語化・科学化が行われた結果効率のいいトレーニング方法が生み出され大幅なパフォーマンスの向上が実現したことからわかるように、身体知にも言語化・科学化が可能な領域は多く存在している。芸術の世界でも同様のことがなされていいのではないか?しかしその一方で、芸術の世界はそのパフォーマンスの品質特性について数値で説明することができず、より速く演奏すること「が可能であること」は表現を拡げるかもしれないがより速く演奏すること「自体」は正義ではないため、数値化による効率化が遅れていることのみを以て芸術に進歩がないということはできないことも了承している。
私は能の心得は全くないし演劇の役者としての心得も全くないが、『風姿花伝』の芸術論としての部分のかなりの部分がクラシック音楽に通じるところがあるものとして読んだ。特に、クラシック音楽が現在進行形で作られている芸術であった16〜19世紀や20世紀前半において自作を重視する考え方はそのまま通用しただろうと思われる。能もクラシック音楽も再現芸術になってしまった現在では少し考え方が変わっているのは事実だが…。一方で現在進行形のart formであるところの電子音楽・DTMにはこの自作を重視する考え方はかなり通じるところがあると思う。
言語の世界の限界を説くフレーズでもう一つ有名なものとして、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の命題7、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.)5」というものがある。ここでいう「語られ得るもの」「語り得ぬもの」は真偽命題の形で表現できるかどうかのことである。哲学や形而上学は事実の記述ではないゆえに(『論考』でとられている言語の写像理論のもとでは6)有意味に(真偽判断が可能な命題として)議論することができない、として『論理哲学論考』は哲学・形而上学の限界を示したといわれている。一方でこれは「哲学は終わり!自然科学しか勝たん!w」という主張ではなく7、「語り得ぬもの」の領域の存在は否定しておらず、「語り得ぬもの」の領域も「示され得る」、つまり真偽命題としては表現できないが言語によって了承させることができる、ということは主張されている。
真偽命題として表現できる、派生として数値の世界で表現できるものについては計算機が扱うことができ、ひいてはAIが扱うことができる。一方でAIは「語り得ぬもの」について沈黙するか、沈黙しなかった結果確率的な動作をするしかなくhallucinateするしかない、と理解している。LLMはヴィトゲンシュタイン的な言語の論理モデルを実装するものではなく言語の統計的モデルにすぎないのでこれは当てはまらないという批判はありうるが、確率的モデルを採用したとして得られる結論は「語り得ぬものについては、AIはhallucinateするしかない」な点は変わらないと考える8。真・善・美のうち、真は真偽命題として扱うことができるので機械の得意分野だが、善や美は真偽命題の世界にはなく「語り得ぬ」ものであり、ゆえにAIは積極的に・確定的にこれをなすことができない。ゆえに、審美眼が人類に残された砦であるように、善をなすことも、人類に残された砦の一つであるといえよう。
「善」や「美」が真偽命題の領域になく「語り得ぬもの」である、つまり論証できないものである、ということを以て、「善」や「美」は意味がない、追求するに値しない、というのは、論理万能主義者の陥りがちな罠であると考える。特に、「善」や「美」を合理性に還元し論証可能性のある領域にのみ閉じ込め、論証可能性のある領域の外にあるものについて言及することを否定するのは価値体系を欠いた合理主義者にありがちな考え方である。本ブログの『The Utopia of Rules, インボイス制度、そしてLawful Evilについて』では、価値体系を欠いた合理主義が倫理を欠いた行いの源泉となることについて記述している。
最近のビジネス界において言語化の重要性が説かれるようになったことに抗うためか、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」というフレーズを「言語化は無意味」と読み解いた記事を見たことがある。また同様に、芸術方面の人が「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。」を自らの技芸の言語化を行わない理由として使うことも見たことがある。どちらも誤読である。
前者は言語化を尽くした先での言語というものの機能とその限界について言及しているのである。よって言語化をしたくないという人にとって語れない、語る能力がないもののことを「語り得ぬもの」と言っているのではなく、それが適切に「語り得るもの」の範囲に入っているならば世界の誰かは語る能力を持っていて論証が可能である。なので、ヴィトゲンシュタインはあなたの論理能力の欠如を救済してはくれない。
なお私はアレクサンダーが「無名の質」について言語化の能力が足りなかったために「無名の質」と名付けざるを得なかったとは思っておらず、形而上学・美学の世界に属するものなので「語り得ぬもの」の世界に属するものでありその詳細について言い切ることを避けざるを得なかった、という理解をしている。
後者については室町時代の時代背景9では部分的には正しい読み方と言ってもよいかもしれないが、そもそも秘伝であった『風姿花伝』別紙口伝が公知のものとなってしまった現代は圧倒的なテキストの研究の積み重ねの上に芸術が成立している時代であり、言語化とその成果の研究を否定して芸術が成り立つ時代ではない。現代においてはただ個人が隠すだけでは何も隠れておらず新規ではない。パフォーマンスの数値的部分について追求することは芸術ではないかもしれないが、だからといってそれを可能にする技術の追求やトレーニングの効率化を否定することは稽古の物数と工夫の否定でもある。
「語り得るもの」の世界を消尽することにより得られる価値があるということがLLMによって示された。一方でLLMは「語り得ぬもの」の世界については真偽命題で表現できない以上確率的にhallucinateすることしかできない。また、AIを生み出し進歩させる思想は無制限の自由放任主義的資本主義であり、本質的に善をなすインセンティブを持たない。
善をなすこと、審美眼を磨くこと、「無名の質」を追求することは、「語り得ぬもの」の世界に属している。ということは、「無名の質」こそ花であり、「無名の質」なきものは花ではない、その「無名の質」を知ることこそ肝要の花、なのではないか。
「真」はLLMがやってくれるかもしれないので、人類のみなさまにおかれましては、特に「善」と「美」を、やっていきましょう。いや、「真」もプロンプト次第では前提がぶっ壊れているフェイクももっともらしく生成できるので本当に「真」をやってくれるかというとやってくれないな。そうしたら人類に残された最後の砦は真・善・美です。軽佻浮薄10なAI slopを超えて、「ありえん良さみ」を、「無名の質」を、gravitasを、生きた証として刻んでいきましょう。
新規性もいいですね。新規性はまごうことなき「花」です。私はこっちに関しては明確に無器量の者11なのでもっと然るべき人が語ってくれるでしょう。
『論理哲学論考』における「語り得ぬもの」のことだが、これは英語では”Where(of) one cannot speak”と訳されており直接に”The Unspeakable”というフレーズは用いられていない ↩
注: 私は美学・文学・哲学の正規の教育を受けていない素人です ↩
ここで引用している文は角川ソフィア文庫の『風姿花伝・三道 現代語訳付き』(訳注: 竹本幹夫)をベースにしている。単純に現代語訳をつけているだけでなく、テキスト間の矛盾の存在や、各テキストが順番に成立したのではなく後年に付け加えられた可能性があることなどの史料批判的な解説が充実しており理解の助けになった ↩
https://x.com/jellied_unagi/status/814510651360083968 や https://cultured-tin-57c.notion.site/2b004a928df080ae9f32d6cbcdcd4968 など ↩
訳は岩波文庫版の野矢茂樹訳『論理哲学論考』より ↩
後期ヴィトゲンシュタインではこの理論を自ら否定し「言語ゲーム」によって言語の機能を説明しているが、私はこれの記述にあたってここまで踏み込むことはできなかった ↩
とはいえ前文の記述や『論考』出版後に哲学から一旦身を引いたところから見ると当初は「哲学は終わり!w」と思ったのかもしれないが… ↩
人間の手を介さずに哲学・形而上学の世界のものについて答えを出すことができるAIが出てきたら教えてください、そうしたら本格的に「哲学は終わり!w」が実現したことになるので ↩
時代背景の差として、室町時代の能の作品は原則として口伝で伝承されていたが、現代の能においては作品はテキスト化されており再現芸術と化している ↩
ちゃんと踏み込めないので脚注にとどめるが、「無名の質」に対して、「無名の非-質(Non-Quality/Dis-Quality without a name)」も同様に存在するのではと思っている。これは「無名の質」の欠如とは違い、単に「無名の質」が欠けているだけでなく、「無名の非-質」を持っていることによりある種の軽薄さをもって感じられるものである、という理解をしている ↩
修士課程をドロップアウトしてるので… ↩